熊襲について

古代の南九州にはクマソと呼ばれる人々が住んでいました。

クマソは熊のように猛々しく、勇ましい人々であったといわれ、古事記では「熊曽」、日本書紀では「熊襲」と書かれています。

熊襲の穴はクマソ族の首領・川上タケルが住んでいたところで、女装した日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に殺されたと伝えられています。

熊襲とは記・紀(古事記と日本書紀)によると、南九州に居住した種族。「熊」は球磨(熊本県人吉地方)「襲」は贈於(鹿児島県曽於地方)を表したものとされ、両域にまたがる地帯が熊襲の居住地として有力視されている。記・紀に描かれる熊襲は、反朝廷の種族として登場し、服従せず、礼なき人々の集団と断じられた。

ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しました。

そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでいた土地から追い出し、賤民としてあちこちに分散させました。

そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と身分制度を確立したのです。

東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、圧倒的な力の差によって押さえつけられました。

このようにして、律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築されたものなのです。