私たちは通常、目に見える世界を認識して日々を生きています。目で捉え、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、手で触れるなど、五感を通して形を感じることで、その存在を認識するのです。科学に代表される現代人の思考は、この「見える世界」の中だけに意識があります。現代人は、五感で感じられる現象が起きて初めてその存在を認識し、そこに問題を感じれば、また表面的な形で解決しようとする傾向にあるのです。しかし、目に見えるものの奥には必ず、目には見えない存在があります。心、魂、気。それらは目で見ることはできませんが、その見えない存在こそが、形を持って表面に現れた見えるものの本質を成しているのです。形のある「見える世界」を陽とするなら、その奥にある「見えない世界」は陰です。そしてこの「見える世界」と「見えない世界」が一対となり、私たちの生きる「ある世界(現象界=現象の起きる世界)」を形成しています。そこは、多種多様な生命が留まることなく変化しながら循環していく生命生態系を表現する、命の世界です。
「ある世界」と「ない世界」
宇宙は対向発生と言い、常に相反する二つのものによって成り立っています。天があれば地があるように、男がいれば女がいるように、「見える世界」があれば「見えない世界」があるように、必ず対となる陰陽の存在があり、互いを成り立たせ合っているのです。では、「見える世界」と「見えない世界」を合わせた「ある世界」を陽とするならば、必ずそれと対になる陰の存在があるはずです。それを「ない世界(潜象界=すべての現象の源の世界)」と言います。「ある」ことが前提となっている現代の私たちの思考で、「ない」世界である潜象界を捉えることはできません。そこは、あるかないかという概念すら存在しない、私たちの認識を超越する根源的な世界なのです。「ある世界」が生命生態系を表現する命の世界であるのに対し、「ない世界」はそれらすべての存在の源となる、響きの世界です。そこには一切の歪みも、汚れも存在しません。「ある世界」を自然界とするならば、「ない世界」は天然の源の世界です。天の然るべき姿である純粋な響きが、質的転換をし、「見えない世界」、そして「見える世界」へと現れて現象化し、命となるのです。
潜象界とはなにか
潜象界は現実世界と一体の存在。人が五感で感じ取れる現実世界を現象界といいます。象(かたち)が現れている世界です。それに対して、五感では感知できない象(かたち)が潜んでいる世界を潜象界といいます。では、潜象界とは、現象界と反対側の世界になるのか、というと実はそうではないのです。潜象界は現象界とまったく同時に同じ空間に存在しながらも、五感では感じ取ることのできないだけで、感覚的には現象界を包み込んでいるのが潜象界とも言えます。潜象界はいわゆる「気の世界」であるとも言われています。ただ、いまのところすべてが仮説であり、それを数値化、もしくは映像化して確認する方法がありません。唯一、確認する方法があるとしたら、それは人本来がもっている原初感覚を呼び覚ますこと。この原初感覚は気を実感として感知することが可能で、その原初感覚をもってすれば、潜象界での気の動きを捉えることができるからです。潜象界からの情報はいまのところ、原初感覚を持つ者でしか感知できず、またその気の動きは言葉では表現できないために、感覚を共有することもできません。ですから、潜象界そのものが感知する者の主観でしか表現されず、それゆえにいろいろな表現方法が試されました。
あらゆる歪みをリセットする天然の仕組み
私たちの生きる現象界は、本来、淀みなく流れる自然循環のもとにあります。すべての生命はその循環の中で「見えない世界」から「見える世界」へと生まれ、生き、死を迎えてはまた「見えない世界」へと還っていくことを繰り返しています。ところが自我を与えられた人間は、自然の仕組みのままに循環するよりも、「自分」という個を特別に意識し、それを維持したいと願うようになり、循環の中に滞りを生むようになりました。自我から湧き出す自らの欲望に囚われ、それを叶えようと、特に産業革命以降目覚ましい科学の進歩を遂げた人類は、人工の世界を著しく発展させ、「見える世界」に様々な矛盾を引き起こしてきたのです。
人工の世界とは、人間の手によって自然の仕組みから逸脱した世界を言います。自然界では水が汚れればバクテリアが浄化してくれるように、この現象界で歪み汚れたものは自然循環の中で浄化され、健全(元の姿)になっていくのが、本来の仕組みです。ところが現代の人間の営みは自然の浄化能力を超え、現象界の中の循環だけでは浄化しきれず、汚染は限りない矛盾の現われとして広がる一方となっています。しかし実際には、この世界には自然の力を超えて、あらゆる歪みを解体しリセットする仕組みが存在します。それが天然循環の仕組み、即ち「天然循環法」です。
この世界のあらゆる存在は、発生と消滅を繰り返しながら現象界の中を循環し続けています。同時に、現象界には常に、そのさらに奥にある潜象界から、純粋で美しい「響き」が与えられ続けています。その響きとは、すべての存在の源です。現代人がどれほど現象界を歪め汚染しようと、潜象界は宇宙の始まりから絶えることなく、純粋で美しい命の響きを現象界へと送り続けてきました。その純粋な響きが常に与えられ、支えられることによって、この世界のすべての存在が成り立っているのです。そしてすべての存在は、現象界で存在するサイクルの終わりを迎えると、原子よりも素粒子よりもはるかに微細な、宇宙を構成する最も小さな単位である「カ」(宇宙最極小微粒子)へと解体され、潜象界へと還っていきます。現象界でのあらゆる歪みや汚れが解きほどかれて、元の純粋な状態へと還るのです。この、潜象界と現象界の循環の仕組みが、天然循環法です。
現代に復活するカタカムナ
現代の私たちにはない潜象界という認識は、今からおよそ13000年前に東アジアに発展していたと云われるカタカムナ文明の叡智が現代によみがえり、宇宙に対する新たな認識として私たちに示してくれたものです。古のカタカムナ人たちは、天の星々の命を受け、自然と対話しながら、天然循環の世界を直感で感受し、生きていました。そして自然界でこれから起こることを察知し、危険を回避する高い生命カンを有していました。その時代、私たちの生きる太陽系は、銀河の中心にあるセントラルサンの光を最も受ける、光のピークにありました。
それから長い時を時をかけ、太陽系が光から闇のピークへと向かっていくに従い、自我を与えられた人間は「自分」という小さな枠に自らを閉じ込め、星々や自然との対話を忘れ、自らを生かしている天然循環の法則を忘れ、生命カンを失い、潜象界からの純粋な響きを感受できなくなりました。そうして自らの根源である世界をないものとし、目に見えるものに囚われて物質的な利益ばかりを追い求めるようになり、その結果、世界に様々な問題を引き起こし、他の生命にまで害をもたらすようになったのです。しかし今、時代は闇のピークを越え、再び光のピークへと向かって舵を切りました。かつて光のピークを生きたカタカムナ人の叡智は、闇のピークを越えたばかりの現代を生きる私たちへ、新たな時代に向かうべき方向を示してくれています。
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天然循環法で生きる
この世界は本来、美しい響きの豊かな生命エネルギーに満ちあふれています。それを感受するのは、心です。宇宙の始まりから絶えることなくこの世界へ与えられ続けている命の源の響きを感受するためには、心を美しくする必要があるのです。自我という小さな囚われから解き放たれ、潜象界までを含めたこの世界の大いなる仕組みを理解し、そこから湧き出す美しい響きを自らの心に乗せて世界へと響かせた時、その響きは現象界の歪みを解き、純粋な生命エネルギーに満ちた美しい場(イヤシロチ)を広げていくことでしょう。人間には本来、そのような能力が備わっているのです。それが他の生命と人間との、大きな違いです。人間は、自らの欲望によって世界を歪め、自然の循環から逸脱した命が疲弊していく場(ケガレチ)をつくることもできれば、美しい響きを響かせ、そこにいるだけで心が癒され命が活性化していく場をつくることもできる、両方の能力を持ち合わせています。使い方によって諸刃の剣となる、それだけの高い能力を人間は与えられているのです。心を磨き、この世界の大いなる循環に沿って自らを健全な存在へとよみがえらせ、健全な人々が生きる美しく豊かな世界を表現する。それが天然循環法で生きるということでありすべての場面において、それを実践します。
古代の叡智を現代に生かし 生活に表現する
カタカムナとは
カタカムナは、今から約13000年前の上古代の東アジア一帯、特に日本(当時は日本列島がまだ大陸と陸続きだった)で高度に発達したといわれる、言霊を元にした宇宙物理学のことです。現代の最先端の物理化学とそれを元に発達した現代社会は、今あらゆる方面で行き詰まりを見せています。それは、私たちが生きているこの三次元物理世界の背後にあって、この世界を生み出す元になっている「潜象界」(多次元世界)があるという発想がないからです。この世界を生み出す根源の世界の存在を忘れているので、人々の視野は狭くなり、物事を思考する発想が物理性に重きを置いています。そういった偏った世界観では、行き詰まるのは至極当前のことと言えます。ですから、時代の変遷の結果、現代の社会がこの行き詰まりに行き当たったことは予定通りのことと言えるのです。予定通りということは、この状態は約束されていたということであり、当然その先があるのです。その先を生きる人々へ、時代は今、次の人類の生き方のメッセージとして、新たな気づきを伝えようとしています。このような流れの中で、13000年前の宇宙物理学が封印をほどかれ、今、私たちに呈示されています。
カタカムナでみる宇宙の仕組み
カタカムナの八鏡文字の配列で示されるウタヒの多くには、私たちが命をつなげ、社会を形成していくために最も重要な、性についての奥義が示されていると言われています。
カタカムナのウタヒ 第5首・第6首
私たちの文明の奥にある人々の営みは、性に始まり性に終わると言われ、その正しい性の表現が失われてきた結果、すべての社会的秩序は混乱を極め、現代の人々の心をむしばみ、正しい行いがどこにあるのかわからないような状態を呈しています。カタカムナのウタヒでは、そうした性の真理を宇宙物理とつなげ、宇宙の根本は生命であり、私たちの社会をつなげていくための最も重要な行為が、人々が行う性にあることを示しています。今、混乱の極みを迎え、正しい社会づくりを目指すために、時代はまさしくこの古代の叡智、宇宙物理学カタカムナを示してくれているのです。カタカムナでは潜象界のことを「カムの世界」、そして三次元物理世界(現象界)のことを「カタの世界」と言い、全ての命や物質は「カムの世界」から生まれる段階で、質的に転換(ナ)した結果、命や物質が存在する「カタの世界」ができていくと示しています。その事を「カタ・カム・ナ」と言います。この二つの世界は質的転換を伴いながら常に循環しており、その循環のことを「天然循環」と言います。「カムの世界」は、意識レベルが低いと感受することが出来ない緻密で微細な世界です。上古代のカタカムナ人は、そういった世界があることを認識していました。そして、宇宙が発する響きの中から48音を聞き分け、なおかつ一音一音に深い意味が秘められていることを感受し体系化し、残してくれました。この48音が世界中の言語の元になっていると言われています。その後、時代と共に人々の感受性は鈍っていき、カムの世界の存在を見失っていきました。そして、世界中の言語は歴史と共に分裂して発達し、変化していきましたが、日本の大和言葉ではカタカムナの時代から殆ど変化することなく、純粋に48音が現代に引き継がれてきたのです。カタカムナの時代は「コトダマノサキアフクニ」と定義され、多くを語らなくても、以心伝心で想いが伝わる民の住むクニと言われていました。その時代の人々の心は調和的であり、言葉は言霊であるということを熟知していたので、言挙げしない民、つまり議論しない民だったといいます。それは、言葉には人を殺す事が出来るほどの力があることを知っていたからなのです。しかし、時代の流れと共に、人々の心は汚れてゆき「カムの響き」を感受出来なくなり、そんな状況と共に、カタカムナはレベルダウンし、封印されていきました。現代人の感受性は鈍くて荒くなり、それはまるで目の粗いザルのようなものです。「カムの世界」という微細な世界は、目の粗い網ではすくうことは出来ません。「カムの世界」は三次元の理論や平面的思考では捉えられず、記憶するものでもありません。心や全身の細胞で感受するような微細な波動の世界なので、きめの粗い心や脳では感受出来ないのです。現代の科学は、3次元の物理的物差しで測れるものしか、その存在を認めません。ですから、直観や心で感受するカムの世界を認識することは出来ないのです。しかし、人は誰でもカムの世界から生まれてきたエネルギーで存在しているのですから、DNAには必ずその記憶が刻まれており、その意識に到達した精神レベルを有する者には、時が来れば封印された記憶がほどかれ、理解出来るようになるものでもあります。これからの時代の困難を人々が乗り越えていくために、そういった広い世界観と、カムの世界という多次元世界を感受する能力が必要とされています。そのためには、一人ひとりの波動量を上げ、直感力を磨くための心磨きが必須となってくるのです。
現代に復活するカタカムナ カタカムナが世に出たのは、1949年、楢崎皐月氏が兵庫県六甲山系の金鳥山で地質調査中に平十字という謎の人物に出会い、見る機会を得た古文書「カタカムナ」(八鏡文字)を、5年かけて読解したのが始まりです。しかしそれは一般人にはなかなか理解出来ない難解なものでした。楢崎皐月氏に続き、宇野多美恵氏など後のカタカムナ研究者たちに引き継がれてきた「カタカムナ」が、何故今、私たち木の花ファミリーに出会ったのかを考察すると、多くの人々が知識として学ぶカタカムナの探求が、いよいよ生活に表現される時代になったからなのでしょう。私たちが生きている今は、過去の何万年、何億年の積み重ねの上にあり、星の運行(天盤の巡り)により、いよいよ一般大衆が真理に目覚めるサイクルが巡ってきているのです。そして、その奥にある大いなる意志を感じるマクロの視点と、日々の細かなことの中で己の心を緻密に振り返りながらこの世界の奥にある微細な世界を観じるミクロの視点、その二つを両輪とした学びは、これから真理を求める人には欠かせないものです。
古代のカタカムナ人は、群れで生きることで一人一人の個性的な直観を結集し、自然環境の厳しい時代を乗り切っていったと言われています。人々の価値観が多様になり、欲望の渦に巻き込まれて真実を見失っている現代は、長い歴史の中でも時代の大きなターニングポイントになっています。人間の経済活動のために自然環境は悪化の一途をたどり、これから自然災害はさらに厳しくなります。社会を見ても人の心は荒れ果て、本来保つべき人心を失い、心の病が蔓延し、犯罪も増えています。民族紛争も絶えることがなく世界情勢も悪化している状況の中で、私たち人間が目指すべき事は、これからさらに増していくことでしょう。今まさに、宇宙の星々の運行も、みんなでつながって生きて行く調和の時代が始まることを告げています。そんな時代の流れの中、カタカムナの深い叡智をみんなで探求し、深め、一人ひとりが直観を磨き、それを生活に正しく落としてゆく事が大切です。集い語り合うところから、新たな時代の真実が生まれてくるのです。カタカムナの学びは、知意行一体と表現され、宇宙の道理を知り(知)、意欲を持ち(意)、生活に表現する(行)ということを元にしています。それを反復演練することにより、ミノナライとして身に着け、無駄のない、優れた社会を創造していくことにつながります。