マナのつぼが神宝となった所以

エジプトを脱出した後、イスラエルの民は荒野を40年間、徒歩で旅しながら、神が約束されたカナンの土地に向かいました。その際、空腹を覚えた民に対し、天から与えられた食物が、マナと呼ばれるパンのような食べ物です。イスラエルの民は約束の地に辿り着くまで、そのマナを食べ続けて、生きながらえることができたのです。

アロンの杖の時と同様に、神はマナについても、後世の民のために証として残しておくことを教えられました。神はモーセに対し、「子孫のためにたくわえておきなさい」と命じ、人々がエジプトから導き出された際に、神が奇跡的に与えたパンを証のために見せることができるようにしたのです。神の命に従ってモーセはアロンに対し、一個のつぼをとり、マナをその中に入れて子孫のために蓄えることを指示しました。アロンは言われたとおり、つぼの中にマナを入れて「あかしの箱の前においてたくわえた」と、出エジプト記16章に記録されています。神ご自身が命じたことによって保存されたマナのつぼは、こうして契約の箱とともに備えられ、神聖なものとされたのです。

マナのつぼマナのつぼの形や大きさなどは知られていません。ただわかっていることは、契約の箱の前に置かれたマナのツボは金色であったということです。食べ物であるマナを保管し、後世の民にとっての証とするわけですから、そのつぼは小さいものではなく、ごく普通のつぼと同じ程度の大きさではなかったでしょうか。

あかしの箱とも言われた「契約の箱」は、聖なる至聖所に置かれていることから、立ち入ることが厳しく制限され、神の祭司しか出入りできませんでした。それ故、神から与えられたマナや、他の神宝が契約の箱の前に置かれていることは重要であり、祭司らはその事実を証することにより、民を励まし続けたのです。旧約聖書に書かれている話は単なる物語ではなく、実際におきた出来事をつぶさに記録したものでした。

世界一の大きさのマナのつぼが仁徳天皇量の前方後円墳です。前が方ですから四角い方が上になります。写真では必ず逆さまに見せてありますが実際はさかさまに見ます。首の部分にあるのが壺の取手になります。マナは今のお餅のことです。お正月にいただくのは古くからの慣わしになります。

装飾古墳館の芝生に広がる大小さまざまな13基の古墳が国史跡「岩原古墳群」です。

岩原古墳群は古墳時代中期(5世紀代)に造られました。熊本県内最大級:全長107mの前方後円墳「岩原双子塚(ふたごづか)古墳」を中心に、下原(しもばる)古墳、塚原(つかはら)古墳、馬不向1~3号墳、寒原(かんばる)1~5号墳など、大小11基の円墳が点在しています。

岩原双子塚古墳は本館最大の前方後円墳。墳丘の長さ107m × 後円部直径57m × 高さ9m
日本有数の国指定史跡。地域一帯を治めていた人のお墓だと考えられています。

古墳群の中でも最も大きな岩原双子塚古墳は、前方部と後円部の境目に突提(とったい)と呼ばれる祭壇があるのが特徴です。また、墳丘の周辺を馬蹄(ばてい)形に周溝(しゅうこう)を巡らせています。墳丘は3段築盛(さんだんちくせい)という前方後円墳では定型の構造。その表面には崩れるのを防ぐ目的で葺石(ふきいし)が敷き詰められているようです。また、段丘の平坦部には円筒埴輪(えんとうはにわ)を並べて埋めてあることが分かっています。

ではこの古墳の主(あるじ)はどのような埋葬施設(まいそうしせつ)に葬られているのでしょうか。発掘調査が実施できていないため詳しいことはわかりませんが、過去の地中レーダー探査などからは家形石棺(いえがたせっかん)が直接埋めてあるとみられています。

今から約1500年前、
この台地には前方後円墳と
それを囲むように広がる一族や
家来の円墳、さらに周囲には墳丘(※)を
持たない庶民の墓が造られていたようです。

※墳丘とは古墳の盛土のことを指します。

石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ)

弥生・古墳時代に流行した墓壙の一種。地下に長方形の竪壙を掘り、死者を収容したのち、板石、割石などを並べて蓋としています。
第1号小円墳遺跡・第2号小円墳跡に隣接しており、円墳の石棺と同じ材質の石材を使った石蓋(せきがい)土壙墓で墳丘を持たない墓であったようです。

熊本の装飾古墳の歴史

今から1500年前の話。
日本各地の首長たちは古墳と呼ばれる「お墓」を造っていました。
古墳は、形・大きさ・埋葬施設の形態から当時のヤマト王権と深い繋がりがあるとされています。
また、前方後円墳は”ヤマト王権が認めた首長のみ”築造を許されたと考えられています。

熊本の菊池川流域に装飾古墳が多い理由は、
装飾古墳に用いる赤色の顔料「ベンガラ」の材料となる「阿蘇黄土」が入手しやすかったから。
まさに阿蘇山がもたらした「自然の恵み」と言えます。

近年、九州で独自発展した装飾古墳は東日本まで広がりを見せていることがわかってきました。
九州で独自文化として芽生え、広がっていった「装飾古墳」の世界を当館でお楽しみください。https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/about/

https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/about

不動岩(ふどうがん)山鹿市

不動岩ってどんな岩?不動岩の秘密

不動岩って何?

山鹿市東部の三玉地域では、山腹に不動岩と呼ばれる奇岩が露出しています。古くは山伏の修験場であり、民話の題材としても使われています。現在は、九州自然遊歩道のルートとしても親しまれています。
この不動岩は、赤紫色の礫岩(れきがん)層からできています。同じ岩相を示す礫岩は、三玉地域の山地の南東斜面と、蒲生東方湯の口池の北西側斜面、首石岩から一つ目神社まで分布します(渡辺・藤本、1993)。

不動岩はどういう岩でしょう?

不動岩は、一見してわかるようにゴツゴツとした感じがする岩です。よく近づいてみると、小さな石ころから大きな石まで様々な大きさの石がくっついて不動岩を形作っているのがわかります。このように、石ころがくっついて大きな岩石をつくっている岩を礫岩(れきがん)といいます。不動岩をつくっている石ころの大きさは、小さいものは5mmくらいから、大きなものでは直径50cmにもなります。

不動岩はいつ頃、どうやってできたのでしょう?

不動岩は、3~4億年以上も前の古生代の「変はんれい岩」のれきを主とする礫岩(西村・柴田、1989)です。変はんれい岩とは、深成岩であるはんれい岩が、熱や圧力で変化したものです。不動岩は、この他に、珪質変岩(チャートに似た岩石)、緑色変岩(緑色の硬い岩石)、泥質変岩(黒い縞模様が見える岩石)などからできています。まれに花崗岩を見ることがありますが、全体の1%以下です。
これらの岩石が、気の遠くなるような年月をかけて、崩れて水に流され、洗われ、丸い石や砂になり、厚く積み重なって強い圧力を受け、岩盤となり陸地になりました。さらに、雨や風、地震や断層によってしだいに崩れ、残ったのが今の不動岩です。
この不動岩をつくっている礫岩に含まれる花崗岩は、約1億年前の岩石です(笹田、1987)。これらの石が混じっている不動岩は、少なくとも1億年より新しい岩石であると思われますが、証拠がないのでいまだに正確な時代がわからない不思議な岩なのです。

不動岩にまつわる伝説

「山鹿市三岳の彦岳と不動岩は異母兄弟で、母は実子の不動岩を可愛がっていた。ある日、母は『首引きをして勝った者に宝物の3つの玉を与える』と約束した。そこで二人は一生懸命力をふりしぼって戦ったところ、彦岳の方が強く、不動岩の首がとんでしまった。これが、今の『首石』であり、その時の出血で三玉の土は赤土となった。首引きの時、二人の力で土が盛り上がってできた山が、今の震岳であり、この山の頂上の2つの凹地は首引きの際の縄跡である」と言われています(案内板:環境庁・熊本県)。

不動岩の名前のいわれ

不動岩の名前は、平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り、修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩のまわりに坊を建て修行していたと伝えられています。

参考文献

古家修 「山鹿市域および周辺の地質」 『山鹿市史』上巻 山鹿市 1985
渡辺一徳・藤本雅太郎 『土地分類基本調査 5万分の1表層地質図「山鹿・荒尾・大牟田・久留米」』 熊本県 1993
西村裕二郎・柴田 賢「”三郡変成帯”中の変斑れい岩質岩石の産状とK-Ar年代」『地質学論集33』 日本地質学会 1989
笹田政克 「豊肥地域の先第三紀基盤岩類」 『地質調査所月報38』 1987
島田一哉・宮川英樹・一瀬めぐみ 「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌120』 1999 https://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/932