五蘊とはお釈迦様の教え
五蘊(ごうん)は、五陰(ごおん)とも表記されることがあります。
真言密教では、右手の親指から順に識、行、想、受、色、という「五蘊」(仏教で、人間の心身をつくり上げていると考える5つのもの)、左手の親指から順に空、風、火、水、地という「五大」(万物をつくり上げる5つのもの)をそれぞれ象徴すると考え、印でこれらを組み合わせることでさまざまな教えを説く。
五蘊は物質である体・肉体を意味する、色
そして、私たちの心・精神、考えるプロセスを細かく分類した受・想・行・識という4つに分かれます。
色 → 受 → 想 → 行 → 識
色、受、想、行、識の5つのうち、「色」だけは物質的なもの、物体を意味する言葉である。
人間でいえば肉体。つまり人間の形をなしているものはすべて「色」に分類される。
なので、体や髪の毛、爪や血液など、物体として存在するものはすべて「色」となる。
残りの受、想、行、識はすべて精神的な作用を意味している。
精神的な作用を4つに分類するという考えが、聞いただけでは理解しづらいところかもしれないが、順を追って説明するのでご安心を。五蘊とは何かわかりやすく日常の例に当てはめると
五蘊をイメージするため、次のような状況をイメージしてください。( )カッコの中はサンスクリット語
<色> しき(ルーパ) 物体
体が動いています。そして体が動いた結果、例えば公園についたとしましょう。
この時点では特に何も考えずただ体が動いた結果公園にいたとします。
<受> じゅ(ヴェダナー) 感受
公園に行くと、小さい声を上げる”何か”がいることに気づきます。
この時はこの”何か”は目に入って来る映像、耳に入ってくる音だけの存在です。
<想> そう(サムジヤナ) 表象(象徴)
眼に入ってきた映像と耳に入ってきた音は、”小さな子供がこけて泣いている”のだとわかります。
<行> ぎょう(サンスカーラ) 意志
小さな子供の近くに行き、起こしてあげるという意思を持ちます。
<識> しき(ヴィジュニャーナ) 認識
小さな子供が泣いている姿を見て、「可哀想に、助けてあげないといけない」と受・想で理解した状況をどんな状況か認識するというのが識です。
私たちは普段何気なく行っていることは、深く考えて行っていることも、そうでないことも、すべては五蘊に当てはめることができます。
この五蘊という働きに気づいたお釈迦様はこの五蘊について次のように解説をしていきます。
仏教での色即是空。色や形は仮の物で本当は何もない。と言う意味です。
科学的には、量子の世界です。人間がまと纏っている肉体は仮の物、全ては魂の世界です。
従って、日本人(YAP遺伝子継承者)は死後、魂が次の世界(来世)に旅立ちます。
大和魂(ヤマトとはヘブライ語の 神の民です)神の民の魂です。
YAP遺伝子は、龍蛇の魂です。日本人は太古より蛇を神として祀り、蛇は殺したらバチが当たると言い伝えて参りました。神社参拝に行きますと、しめ縄がありますが、しめ縄は二匹(オス・メス)の蛇の交配を表しています。
又、お宮の中カガミ(鏡)は、サンスクリット語のカガ(蛇)から来ています。そして、カガミの真ん中“ガ“を取るとカミ(神)になります。要は、自我(我:が)を取れとの教えです。欲我(我欲)を捨てろとの教えです。
神社での参拝は、お願い事をする場所ではなく、自分を見つめ直す場所であり、自我を捨て、欲を捨て、心を正し、本来の日本人に帰る社です。
阿蘇猿回し
言霊「げんれい」
言霊「げんれい」と「ことだま」の違いをご存じでしょうか?
巷では「言霊=ことだま」と読まれることがほとんどだと思いますが、シン・引き寄せの法則では「言霊=げんれい」と読んでいます。
それはなぜなのでしょうか!?
「言霊(げんれい)」と「ことだま」の違いを簡単に説明すると、一般的に読まれることが多い「ことだま」とは、肉体レベルでわかるもの、音波など耳で聞こえるものになります。
かたや言霊(げんれい)とは、耳で聞こえる前にある「大元のエネルギー」のことを言います。
そしてその言霊(GENREI)のエネルギーは様々なものと結び起こすことを昔の賢人たちは気づかれたのです。
「日本の叡智」と言われる言霊を紐解くことで日本語の素晴らしさと日本語を使う日本人の素晴らしさに気づいてもらえるのではないでしょうか。
言霊の意味とは?
言霊の意味とは、人間が発する言葉に込められる魂のことを言います。言葉を発すると、その言葉には魂が宿り、良くも悪くも様々な効果が表れると古くから言われているのです。
プラスの言葉を言えば、そこに魂が宿り、本当にあなたに力を与えてくれることもあります。しかし逆に、マイナスの言葉を言ってしまうと、その影響によって本当に不幸を招いてしまうこともあるのです。
言霊は周囲の人にも影響を与えることがあります。周囲の人に勇気を与えることもできれば、不安を煽る場合もあるため、発する言葉には注意しておかなければなりません。
強力な言霊の効果5個
1. 自分自身を勇気づけられる
言霊の効果として、まず挙げられるのが自分自身を勇気づけられるというものです。弱気になってしまいそうなときでも、「大丈夫」「絶対成功する」と言葉にすれば、それにより自信を持てるようになりますよね。
そのようにして言霊は自分の心を奮い立たせてくれる効果があります。不安を感じたときや、プレッシャーがあるときなどに前向きな言葉を発することで、勇気をもらい、成功を呼び込むことができるというわけです。
2. 願いを叶えられる
願いを叶えられるというのも、言霊の効果となります。誰でも願いがありますよね。何かの道で成功したいという願いもあれば、好きな人と付き合いたいという願いもあります。そのようなときは、その願いが叶うと言葉にしてみてください。
引き寄せの法則という言葉もありますが、そのようにして願いを言葉にすれば、実際にチャンスを掴めたり、願いを叶えるためのモチベーションを持てたりするものです。それにより願いを叶えられたという人も多いため、願いを叶えるためには言霊の力を味方にしましょう。
3. 人間関係が良好になる
人間関係が良好になるというのも、言霊の効果となります。言霊を意識しておくと、ポジティブな言葉をよく発するようになりますよね。また、ポジティブな言葉は周囲の人にも影響を与え、温かい気持ちにさせたり、勇気を与えてくれたりします。
そのようになれば、周囲の人もあなたのことを慕うようになるものです。あなたがいるだけで雰囲気が明るくなるような存在になれるため、どんどん人間関係が良好になっていきます。
4. 健康になれる
健康になれるというのも、言霊の効果です。心が健康に与える影響はかなり大きいです。心が弱っていれば、病気の治りが遅くなることもありますし、心が起因となる病気もたくさんありますよね。
言霊を意識して、ポジティブな言葉を発するようにしていれば、心も明るくなれます。それにより心が健康的になっていくため、体も元気な状態になっていくのです。
5. 運気が上がる
運気が上がるというのも、言霊の効果となります。ネガティブな発言ばかりしていると、心まで暗い気持ちになってしまうものです。そのような状態になると、悪い気を引き寄せてしまい、運気も下がってしまいます。
ポジティブな言葉を発するようにすれば、心も明るくなり、人間関係も良好になりますよね。それにより、運気も上がっていくことになるため、言霊は大切なことなのです。
強力な言霊の具体例15個【運気アップ】
言霊で運気をアップさせるためには、どのような言葉を言えばいいのでしょうか。そこでここからは、強力な言霊の具体例を紹介していきます。
1.「ありがとう」
運気をアップさせる言霊としては「ありがとう」がまず挙げられます。この言葉は人に感謝するときに言う言葉ですよね。
言われた人も幸せな気持ちになれますし、言ったほうも照れはあっても気持ち良くなれます。感謝を伝えることで、相手は本当にあなたが感謝してくれているということが伝わるため、自分も相手も幸せにできる強力な言霊です。
2.「楽しい」
「楽しい」というのも、運気をアップさせる言霊です。何かをしているときや、友達と遊んでいるときに楽しいと言うことで、もっとテンションが上がりますよね。
また、緊張するような場面でも「楽しもう」と言えば、不安な気持ちを吹き飛ばすこともできます。自分の心を強くしてくれ、周囲の人のテンションも上げてくれる言霊なのです。
3.「幸せ」
「幸せ」というのも、運気をアップさせる強力な言霊です。幸せを実感するときってありますよね。恋人と一緒にいるときや、自分のやりたいことができているときなどは、幸せを感じることができます。
そのようなときに「幸せ」と言うことで、その幸せを本当に実感できるようになるものです。また、その幸せを守ろうとも思えます。そのため、幸せという言霊は、さらなる幸せを引き寄せてくれる言霊なのです。
4.「運がいい」
「運がいい」というのも、運気をアップさせてくれる言霊です。自分は運がいい人間だと思えれば、自信がつきますよね。それは根拠のない自信ですが、なんだか成功する気がするというような状態であれば、いつでも堂々と自分を主張することができます。
実際にこのような前向きな言葉を発せられる人には、運が味方してくれるものです。運気も上げられる魔法の言葉ですので、定期的に言うようにしましょう。
5.「最高」
「最高」というのも、運気をアップさせてくれる言霊となります。遊びにいっているときや、楽しい時間を過ごしているとき、最高と言えばテンションが上がりますよね。また、何かが完成したときに、「最高の出来だ」と言うこともあります。
このようにして自分が作ったものを最高と思えれば、自分自身を肯定できますよね。それにより、自分という存在に自信が持てるようになるため、「最高」という言葉は大切なのです。
6.「良い日だった」
「良い日だった」というのも、運気をアップさせてくれる言霊です。毎日同じような日を過ごしていると、時間があっという間に過ぎてしまいますよね。他人への感謝も忘れてしまい、無気力に生きてしまいます。
なんでもない日だったとしても、「良い日だった」と思えることで、毎日が良い思い出ばかりになりますよね。それにより、幸せを感じられるため、心身共に健康になれます。
7.「嬉しい」
「嬉しい」というのも、運気をアップさせてくれる言霊となります。何かプレゼントをもらったときや、何かをしてもらったときなどに、「嬉しい」という言葉を使いますよね。
そのようにして相手に感謝を示すことで、相手はあなたにプレゼントをして良かったと思えるようになります。人間関係を良好にできるため、これも運気を上げてくれる言霊となるのです。
8.「絶対できる」
「絶対できる」というのも、運気をアップさせてくれる言霊です。緊張しているときなどは弱気になってしまいますよね。しかし「絶対できる」と言えば、不思議とできるような気になってくるものです。勝負所で使える言霊となります。
9.「大丈夫」
「大丈夫」というのも、運気をアップさせてくれる言霊となります。「大丈夫」という言葉を聞けば安心しますし、勇気ももらえるものです。それにより一歩踏み出すことができるため、自分自身に優しく「大丈夫」と言ってあげましょう。
10.「おはよう」
「おはよう」という言葉も、運気をアップさせてくれる言葉です。「こんにちは」「おやすみ」というような挨拶をしっかりすることで、お互いに気持ちが良くなりますよね。コミュニケーションも取れるため、これにより運気を上げることができます。
11.「愛してる」
「愛してる」というのも、運気をアップさせてくれる言葉となります。日本人は恋人に愛してるとなかなか言いませんよね。しかしこのようにしてしっかり愛情を伝えることが、恋人との仲を深めるために大切なことですので、しっかり愛情を言葉にしましょう。
12.「許します」
「許します」というのも運気をアップさせてくれる言葉です。相手に何か非があり、謝罪されたときは、しっかりこの言葉を言うようにしてください。そうすることで相手とさらに強い絆を結ぶことができ、運気も上がっていきます。
13.「おめでとう」
「おめでとう」という言葉も運気をアップさせてくれる言葉です。誕生日や良いことがあった人には、しっかりそれを祝福しましょう。相手の嬉しそうな顔を見ればあなたも嬉しくなり、相手も嬉しくなるため、運気もアップしていきます。
14.「助かりました」
「助かりました」というのも、運気をアップさせてくれる言葉となります。何か助けてもらったら、その感謝をしっかり言葉にして伝えましょう。そうすることで相手はまた助けてあげたいと思うため、あなた自身のためにも大切なことです。
15.「感謝してる」
「感謝してる」というのも、運気をアップさせてくれる言葉です。家族などには恥ずかしくて、あまりこのような言葉を言えないですよね。しかし付き合いが長い相手でも、このような言葉でしっかり感謝を示すことが大切です。
強力な言霊の具体例5個【運気ダウン】
言霊には運気をアップさせてくれるものもありますが、逆の効果を発揮してしまうものもあります。そこでここからは、運気をダウンさせる強力な言霊を紹介していきましょう。
1.「無理」
運気をダウンさせる言霊としては、まず「無理」という言葉が挙げられます。このような弱音を言葉にしてしまうと、どんどん不安になってしまうものです。結果として失敗を呼び込み、自信も喪失してしまうため、無理だと思っても無理とは言わないようにしましょう。
2.「死」
「死」という言葉も、運気をダウンさせる言葉です。文脈として使わなければいけないときは仕方ありませんが、悪口などでこの言葉を使うのは絶対にやめましょう。
強い言葉ですので、それを言ってしまえばかなり運気が下がってしまいます。最悪の場合、自分に言霊の力が降りかかってくる可能性もあるため、気をつけてください。
3.「嫌い」
「嫌い」という言葉も、運気をダウンさせる言葉となります。嫌いな人がいるのは仕方のないことですが、それを言葉にしてしまうと、もっと相手との仲が悪くなってしまいます。場合によっては、大きなトラブルを引き起こす原因となることもあるため、言葉にはしないようにしましょう。
4.「面倒臭い」
「面倒臭い」という言葉も、運気をダウンさせる言葉です。面倒臭いと言ってしまうと、さらに面倒に感じてしまうものです。結果、活力ややる気をなくしてしまいますし、周囲の人のモチベーションも下げてしまいます。
5.「もうダメだ」
「もうダメだ」という言葉も、運気をダウンさせる言葉となります。ダメだと思ったとしても、それを言わず、前向きな言葉を発するようにしましょう。
ダメだと言うときは、もう完全に諦めてしまっていますよね。本来あったはずのチャンスを逃してしまうことになり、運気もダウンしてしまうため、心の中に留めておくようにしましょう。
マナのつぼが神宝となった所以
エジプトを脱出した後、イスラエルの民は荒野を40年間、徒歩で旅しながら、神が約束されたカナンの土地に向かいました。その際、空腹を覚えた民に対し、天から与えられた食物が、マナと呼ばれるパンのような食べ物です。イスラエルの民は約束の地に辿り着くまで、そのマナを食べ続けて、生きながらえることができたのです。
アロンの杖の時と同様に、神はマナについても、後世の民のために証として残しておくことを教えられました。神はモーセに対し、「子孫のためにたくわえておきなさい」と命じ、人々がエジプトから導き出された際に、神が奇跡的に与えたパンを証のために見せることができるようにしたのです。神の命に従ってモーセはアロンに対し、一個のつぼをとり、マナをその中に入れて子孫のために蓄えることを指示しました。アロンは言われたとおり、つぼの中にマナを入れて「あかしの箱の前においてたくわえた」と、出エジプト記16章に記録されています。神ご自身が命じたことによって保存されたマナのつぼは、こうして契約の箱とともに備えられ、神聖なものとされたのです。
マナのつぼマナのつぼの形や大きさなどは知られていません。ただわかっていることは、契約の箱の前に置かれたマナのツボは金色であったということです。食べ物であるマナを保管し、後世の民にとっての証とするわけですから、そのつぼは小さいものではなく、ごく普通のつぼと同じ程度の大きさではなかったでしょうか。
あかしの箱とも言われた「契約の箱」は、聖なる至聖所に置かれていることから、立ち入ることが厳しく制限され、神の祭司しか出入りできませんでした。それ故、神から与えられたマナや、他の神宝が契約の箱の前に置かれていることは重要であり、祭司らはその事実を証することにより、民を励まし続けたのです。旧約聖書に書かれている話は単なる物語ではなく、実際におきた出来事をつぶさに記録したものでした。
世界一の大きさのマナのつぼが仁徳天皇量の前方後円墳です。前が方ですから四角い方が上になります。写真では必ず逆さまに見せてありますが実際はさかさまに見ます。首の部分にあるのが壺の取手になります。マナは今のお餅のことです。お正月にいただくのは古くからの慣わしになります。
装飾古墳館の芝生に広がる大小さまざまな13基の古墳が国史跡「岩原古墳群」です。
岩原古墳群は古墳時代中期(5世紀代)に造られました。熊本県内最大級:全長107mの前方後円墳「岩原双子塚(ふたごづか)古墳」を中心に、下原(しもばる)古墳、塚原(つかはら)古墳、馬不向1~3号墳、寒原(かんばる)1~5号墳など、大小11基の円墳が点在しています。
岩原双子塚古墳は本館最大の前方後円墳。墳丘の長さ107m × 後円部直径57m × 高さ9m
日本有数の国指定史跡。地域一帯を治めていた人のお墓だと考えられています。
古墳群の中でも最も大きな岩原双子塚古墳は、前方部と後円部の境目に突提(とったい)と呼ばれる祭壇があるのが特徴です。また、墳丘の周辺を馬蹄(ばてい)形に周溝(しゅうこう)を巡らせています。墳丘は3段築盛(さんだんちくせい)という前方後円墳では定型の構造。その表面には崩れるのを防ぐ目的で葺石(ふきいし)が敷き詰められているようです。また、段丘の平坦部には円筒埴輪(えんとうはにわ)を並べて埋めてあることが分かっています。
ではこの古墳の主(あるじ)はどのような埋葬施設(まいそうしせつ)に葬られているのでしょうか。発掘調査が実施できていないため詳しいことはわかりませんが、過去の地中レーダー探査などからは家形石棺(いえがたせっかん)が直接埋めてあるとみられています。
今から約1500年前、
この台地には前方後円墳と
それを囲むように広がる一族や
家来の円墳、さらに周囲には墳丘(※)を
持たない庶民の墓が造られていたようです。
※墳丘とは古墳の盛土のことを指します。
石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ)
弥生・古墳時代に流行した墓壙の一種。地下に長方形の竪壙を掘り、死者を収容したのち、板石、割石などを並べて蓋としています。
第1号小円墳遺跡・第2号小円墳跡に隣接しており、円墳の石棺と同じ材質の石材を使った石蓋(せきがい)土壙墓で墳丘を持たない墓であったようです。
熊本の装飾古墳の歴史
今から1500年前の話。
日本各地の首長たちは古墳と呼ばれる「お墓」を造っていました。
古墳は、形・大きさ・埋葬施設の形態から当時のヤマト王権と深い繋がりがあるとされています。
また、前方後円墳は”ヤマト王権が認めた首長のみ”築造を許されたと考えられています。
熊本の菊池川流域に装飾古墳が多い理由は、
装飾古墳に用いる赤色の顔料「ベンガラ」の材料となる「阿蘇黄土」が入手しやすかったから。
まさに阿蘇山がもたらした「自然の恵み」と言えます。
近年、九州で独自発展した装飾古墳は東日本まで広がりを見せていることがわかってきました。
九州で独自文化として芽生え、広がっていった「装飾古墳」の世界を当館でお楽しみください。https://kofunkan.pref.kumamoto.jp/about/
不動岩(ふどうがん)山鹿市
不動岩ってどんな岩?不動岩の秘密
不動岩って何?
山鹿市東部の三玉地域では、山腹に不動岩と呼ばれる奇岩が露出しています。古くは山伏の修験場であり、民話の題材としても使われています。現在は、九州自然遊歩道のルートとしても親しまれています。
この不動岩は、赤紫色の礫岩(れきがん)層からできています。同じ岩相を示す礫岩は、三玉地域の山地の南東斜面と、蒲生東方湯の口池の北西側斜面、首石岩から一つ目神社まで分布します(渡辺・藤本、1993)。
不動岩はどういう岩でしょう?
不動岩は、一見してわかるようにゴツゴツとした感じがする岩です。よく近づいてみると、小さな石ころから大きな石まで様々な大きさの石がくっついて不動岩を形作っているのがわかります。このように、石ころがくっついて大きな岩石をつくっている岩を礫岩(れきがん)といいます。不動岩をつくっている石ころの大きさは、小さいものは5mmくらいから、大きなものでは直径50cmにもなります。
不動岩はいつ頃、どうやってできたのでしょう?
不動岩は、3~4億年以上も前の古生代の「変はんれい岩」のれきを主とする礫岩(西村・柴田、1989)です。変はんれい岩とは、深成岩であるはんれい岩が、熱や圧力で変化したものです。不動岩は、この他に、珪質変岩(チャートに似た岩石)、緑色変岩(緑色の硬い岩石)、泥質変岩(黒い縞模様が見える岩石)などからできています。まれに花崗岩を見ることがありますが、全体の1%以下です。
これらの岩石が、気の遠くなるような年月をかけて、崩れて水に流され、洗われ、丸い石や砂になり、厚く積み重なって強い圧力を受け、岩盤となり陸地になりました。さらに、雨や風、地震や断層によってしだいに崩れ、残ったのが今の不動岩です。
この不動岩をつくっている礫岩に含まれる花崗岩は、約1億年前の岩石です(笹田、1987)。これらの石が混じっている不動岩は、少なくとも1億年より新しい岩石であると思われますが、証拠がないのでいまだに正確な時代がわからない不思議な岩なのです。
不動岩にまつわる伝説
「山鹿市三岳の彦岳と不動岩は異母兄弟で、母は実子の不動岩を可愛がっていた。ある日、母は『首引きをして勝った者に宝物の3つの玉を与える』と約束した。そこで二人は一生懸命力をふりしぼって戦ったところ、彦岳の方が強く、不動岩の首がとんでしまった。これが、今の『首石』であり、その時の出血で三玉の土は赤土となった。首引きの時、二人の力で土が盛り上がってできた山が、今の震岳であり、この山の頂上の2つの凹地は首引きの際の縄跡である」と言われています(案内板:環境庁・熊本県)。
不動岩の名前のいわれ
不動岩の名前は、平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀り、修行したことに由来します。当時たくさんの山伏たちがこの岩のまわりに坊を建て修行していたと伝えられています。
参考文献
古家修 「山鹿市域および周辺の地質」 『山鹿市史』上巻 山鹿市 1985
渡辺一徳・藤本雅太郎 『土地分類基本調査 5万分の1表層地質図「山鹿・荒尾・大牟田・久留米」』 熊本県 1993
西村裕二郎・柴田 賢「”三郡変成帯”中の変斑れい岩質岩石の産状とK-Ar年代」『地質学論集33』 日本地質学会 1989
笹田政克 「豊肥地域の先第三紀基盤岩類」 『地質調査所月報38』 1987
島田一哉・宮川英樹・一瀬めぐみ 「不動岩礫岩の帰属について」『熊本地学会誌120』 1999 https://kumamoto-museum.net/blog/archives/chiiki/932
河内の拝ヶ石
金峰山(きんぽうざん)の北側にある「拝ヶ石」と呼ばれる巨石群。最も大きな石は約9mの高さがあり、巨石文明の遺跡ではないかという説もありましたが、その後の調査で、中世の宗教遺跡ではないかと考えらています。岩にペトログラフといわれる古代文字が刻まれていると話題になったり、方位磁石が回転するなどの磁気異常が見られると、注目が集まっています。
kumamoto-guide.jp/spots/detail/51
押戸石の丘にシュメール文字は存在しない
熊本県阿蘇郡南小国(みなみおぐに)町の森の奥に「押戸石(押戸ノ石、おしとのいし、おしどいし)の丘」と呼ばれる小高い山がある(標高 845メートル)。この丘の頂上付近には巨石群がある。最大の石は「太陽石」と呼ばれ、周囲が約 15メートルである。巨石の配置は直線状に並ぶなど、大変美しい。遠くにひろがる景観も美しい。この丘は、巨石群を含めて阿蘇の火山活動が遺した自然の造形である。どの大岩にも無数の亀裂模様や落雷痕、浸食痕が見られる。古代人の岩刻文字(ペトログラフ)は存在しない。
押戸石の丘は、小国町大字中原地区にある。阿蘇のカルデラの中を東西に走る国道 57号線から国道 212号線に入る。約 10キロメートル北上すると、標高 936メートルの「大観峰(だいかんぼう)」の近くに至る。そこからさらに 6キロメートル北上して左折し、南小国町の「マゼノミステリーロード」を西へ約 2キロメートル進むと、「マゼノ渓谷」のあたりに押戸石の丘へ向かう小道が見える。車一台がやっと進める細い山道である。1.5キロメートルほど進むと小さな広場で行き止まる。そこが車止めとなっている。右の背後に見える小高い山が押戸石の丘である。押戸石の丘はそこから普通に歩いて登れる距離にある。登り始めてやがて数分で押戸石の巨石群が見え始める。
この丘から遠くにひろがる 360度のパノラマは、まさに絶景である。北東の遠くに標高 1,791メートルの「九重中岳」や 1,787メートルの「九重山」、またその西側に「小国富士」と呼ばれる「湧蓋山」(わいたさん)、南の遠くに阿蘇の「外輪山」や「根子岳」が望まれ、本当に美しい。近くのマゼノ渓谷は一枚岩の上を清流が流れ、中原川の源流となっている。
「阿蘇火山」とは、現在も噴火を続ける中岳だけでなく、広大なカルデラと外輪山を含む全体の総称である。過去 30万年の間に 4回の巨大噴火を起こしている。特に約 9万年前の最後(第4回目)の巨大噴火は最大規模であり、それによって現在のカルデラが形成された。阿蘇火山の噴火は、より古くは「豊後(ぶんご)火山活動」といって、主に現在の阿蘇の東側で粘度の高い「流紋岩(りゅうもんがん)」という岩質のマグマを放出していた。更に古くは「豊肥(ほうひ)火山活動」といって国東半島から島原半島までの広い地域で主に「安山岩(あんざんがん)」という岩質のマグマを放出していた。豊後火山活動と豊肥火山活動は総称して「先阿蘇(せんあそ)火山活動」と呼ばれる。
【写真 1】 直線状に並ぶ巨石群 |
現在の外輪山と、カルデラを見下ろす大観峰など、その周辺に露出して見られる岩石は、主に先阿蘇火山活動でできた安山岩と、その後のカルデラ噴火によって堆積した「凝灰岩」あるいは「溶結凝灰岩」でできている。約 9万年前の最後の巨大噴火のとき、火山灰は朝鮮半島・北海道・サハリンにまで達した。そのとき溶結凝灰岩に覆われた地域は、溶岩台地となって現在も九州の半分近くに分布している。
押戸石の巨石群も、前記先阿蘇火山活動で放出された安山岩でできている。安山岩のマグマはやや粘度が高く、溶岩流は層状にゆっくりと流れたものと考えられる。
【写真 2】 各巨石の層理の一致 |
安山岩の広大な台地は、その後のカルデラ噴火によって凝灰岩や溶結凝灰岩に広く覆われたが、凝灰岩や溶結凝灰岩は、安山岩よりも風化侵食されやすく、礫、砂、泥などの粒子となり、南小国を含む九州中央部の広範囲にわたって現在の豊かな地表を形成している。
押戸石の丘の巨石群も、安山岩のマグマがゆっくりと流れてできたものである。広大な安山岩の台地には、その上に凝灰岩や溶結凝灰岩が堆積した。
広大な岩盤が褶曲作用の力によって山上で二枚に割れると、地中の安山岩の層はその割れ目に沿って直線状に近い形で地上に露出する。また、岩盤が一点で鋭く押し上げられたり一点で鋭く陥没したりすると、地中の安山岩はその周囲に環状に近い形で地上に露出する。押戸石の巨石群は、そのようにして比較的硬質の安山岩がやや直線状の形をなしたり、あるいは環状の形をなしたりして地上に露出し、風化浸食を経て現在に姿を残したものである。
押戸石の巨石群は、いずれの巨石も安山岩の「層(レイヤー)」の構造(層理)が詳細に見て取れる。その層理は比較的に規則正しく、これはマグマの流れがゆっくりと冷えて層状構造をなしたものである。【写真 2】に示すように、直線状に並ぶ巨石群はレイヤー面の方向がいずれの巨石もおよそ一致している。これも、地中の安山岩が岩盤の割れ目に沿って直線状に地表に露出し、風化浸食の中でその姿を現在に残したためであろう。
押戸石の巨石群について、それを人工的な「環状列石遺構(ストン・サークル)」とする科学的な根拠は存在しない。仮に人工的であると証明するには、たとえば英国の「ストーンヘンジ」のように、「自然には配置され得ない」ことが科学的に証明されなければならないからである。押戸石を先史時代の人々が祭祀の対象とし得たことは想像することができる。しかし、押戸石の巨石群が人工的に配置されたとすることに科学的な根拠はない。
ユネスコや、アメリカやカナダの学会が、この巨石群が先史時代の巨石文化遺跡であるかのように認証した事実はない。ニューヨーク州立大学にライル・ボルスト教授(Lyle B. Borst 1912-2002)という原子炉物理学者は在籍していたが、ボルスト教授が、この巨石群が先史時代の巨石文化遺跡であるかのように認証した事実はない。それらの学会や学者の名前はこの丘の宣伝のために用いられたことがある。
押戸石の丘の巨石群は、これまで述べたように、阿蘇の豊かな、そして過酷な自然がつくった美しい造形である。
押戸石の巨石表面の浸食模様は、すべて野ざらし雨ざらしの中で数年のうちに浸食されて変化し、出来たり消えたりしている。それらはほとんどが「平成」以降にできたものである。古代人が彫った絵文字ではない。約 4,000年前のシュメル文字などのペトログラフ(岩刻文字)は、この押戸石の丘のどこにも存在しない。
約4,000年前のシュメール文字とは karanu (ワイン) unqu (指輪) みなみおぐにまち (現代の日本語を楔形文字で記したもの) |
【写真 3】4千年前のシュメール文字は、どこにも刻まれていない |
葦の硬い茎を削って先端を柔らかい粘土板に斜めに押し付けると、その跡の一つひとつはくさび(楔)の形になる。今から約4,700年前にシュメール人によってその「楔形文字(せっけいもじ)」が発明された【写真 3】。くさび(楔)の形をした一つ一つの要素は、漢字の画(かく)に当たる。当時の楔形文字は約 600文字しかなく(現代日本の漢字の数よりも少なくて)学びやすく、そのようにして今から約 4,400年前のシュメールの都市国家では、完成した楔形文字が使われていた。シュメールの楔形文字は、約 4,300年前にオリエント世界の共通文字として使われるようになり、パレスチナや遠くエジプトにまで広まった。シュメールには楔形文字の読み書きなどを教える学校や図書館もあった。楔形文字は日本語によく似ていて、漢字のように意味を表す表意文字や、かなのように発音を表す表音文字もあった。漢字かな交じりのように混ぜて用いられた。音読みと訓読みがあって送りがなもふられた。シュメールはウル第三王朝(BC 2,113 – BC 2,006)の興隆期を最後に忽然と滅亡した。今から約 4,000年前のことであった。
【写真 4】 浸食痕が多い鏡石 |
筆者らは押戸石の丘を訪ねるたびに、何かペトログラフ(岩刻文字)らしいものはないかと毎回探した。無数の自然な亀裂や浸食模様はあった。それらの浸食模様もここ数年で消えてしまった。また、これといった説明のつかない浸食模様が新しくできていた。
巨石群の中に「鏡石」と呼ばれる巨石がある【写真 4】。その西南面に、牛の頭部のような浸食模様がある。その模様のすぐ傍に蛇のような浸食模様もある。いずれも、自然の浸食痕であろうと思われるが、「平成」になって人為的に彫られたという風説も存在していて真偽のほどは分からない。それらの模様は、2007年には比較的はっきりしていたが、2017年にはもうほとんど消えかかっていた。
この押戸石の丘にシュメール文字がペトログラフ(岩刻文字)として刻まれている岩石はやはり存在しない。
【写真 5】 安山岩のかけら |
押戸石の巨石群は、風化侵食作用によって表面はぼろぼろに粗く、脆弱である。いずれの巨岩も 1,000年を超えて現在の形を正確にとどめるものではない。
特に表面に近い部分はもろくて風化が早い。表面には、亀裂や、酸性雨による酸化や溶解、暴風雨、乾燥、夏の強い日照り、紫外線、吹雪、零下の氷結による急激な体積の膨張と破砕、日中の解凍、砂塵、日夜と夏冬の激しい温度差、頻繁な落雷などによって無数の浸食模様がある。表面の侵食摸様は、とても 100年にわたってその形を正確にとどめるものではなさそうである。
押戸石の巨石群の周辺には、【写真 5】の写真に示すように安山岩が壊れたかけらが無数に散らばり、埋もれている。それらは、おそらくある時期までは一定の形状の巨石をなしていたであろう。それらのかけらを幾つか拾い上げてみると、岩石というにはややもろく、指で触れると壊れることがあり、また両手で持って打つとたやすく破砕されてしまう。自然の力は、これを恐るべし。仮にこの丘全体が風雨によって 1年間にわずか 5ミリずつ侵食されるとしても、4,000年の間には20メートルも侵食されてしまう。
【写真 6】(引用写真) 吉田信啓『ペトログラフ・ハンドブック』 (中央アート出版社)1994年刊 |
ペトログラフ(岩刻文字)の研究者・吉田信啓(1936-2016)は、この押戸石の丘について「大岩には約四千年前のシュメール文字がペトログラフ(岩刻文字)として刻まれている」と主張した。一方、吉田信啓はその著『ペトログラフ・ハンドブック』(中央アート出版社 1994年)の中で押戸石の岩刻文字としてシュメール文字を示すことなく「(ケルトの)ベル神と弓を持つ人像」【写真 6】を紹介している。押戸石の丘にシュメール文字は現実に存在しないからである。筆者らは 2007年にその現物である巨岩について確認してみたが、【写真 7】に示すように「ベル神と弓を持つ人像」【写真 6】も浸食模様でしかなく、それも風化によってもうほとんど消えていた。前記書籍の刊行からわずか 10年余りの風化によってほとんど消えてしまったのである。筆者らは 2015年(平成27年)10月に現地で再確認したが、すでに完全に消えていた。
【写真 7】 風化で消える浸食模様(2007年) |
以上申し述べたように、押戸石の丘にペトログラフ(岩刻文字)は存在しない。
【5】 巨石は落雷で着磁している
巨石の一つに「祭壇石」と呼ばれる岩がある【写真 8】。「太陽石」と呼ばれる最大の岩もそうであるが、ほとんどの岩は強く磁化されている。太陽石も祭壇石も表面に幾つもの窪みがあり、多くの亀裂が走る。方位磁石を表面に近づけると、場所によって磁針の振れが大きく変化する。それも決して神がかりな「磁気異常」などということではない。
【写真 8】 落雷で着磁した岩石 |
これらの石は、安山岩として比較的多くの酸化鉄(磁鉄鉱)を含み、強い磁性がある。このように高地に孤立する岩石は避雷針のように落雷を受けやすく、落雷によって磁化されていて「正常」である。筆者らがこの押戸石の丘を訪ねたある時も、激しい風雨の中で、車の外のすぐ近くに幾つも落雷した。
巨石群の岩石は、幾度となく落雷を受けており、地中の正電荷が岩石から空中の負電荷に向けて大電流となって放たれることを繰り返している。表面の多くの窪みや側面の多くの亀裂はその痕跡である。また、落雷時の大電流の周りにはアンペアの右ねじの法則にしたがって強大な磁界が出現し、酸化鉄の成分は、加熱された状態からキュリー点(磁化変性温度)を通過して冷却されるときに、磁化の方向が固定され、その結果、表面に磁気的なまだら模様ができたものである。
我われ人間には、こうあって欲しいという気持ちがある。その気持ちを科学的に壊してもらいたくないという気持ちもある。しかし、次世代の子どもたちに何を伝え、何を考えさせるか、また、遠くからこの丘を見に来てくれる善意の人々に何を伝えるかはそれとは別である。真実を伝えなければならない。
岩刻文字(ペトログラフ)も約 4,000年前のシュメール文字もこの丘には存在しない。この丘の巨石群は、阿蘇の豊かな自然が造った美しい造形である。また、阿蘇の過酷な自然が造った美しい造形である。遠くにひろがる景観も本当に美しい。それだけで、世界に誇り得る優れた観光資源である。
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一村一博(自由塾研究員)
入口紀男(熊本大学名誉教授)
最強の言霊「君が代」
通常、和歌は57577の31文字で出来ています。この31と言うのが完成数であり、一つの完成された形を表すのが31。でもそこに一字、字余りになる32は守りの力を持ちます。
守りの力として、神霊界と繋がり、それを唱えることで、その力を降ろすことが出来る言霊として、許された言霊が「君が代」です。神々や神仙界において許された言霊を「ゆう幽けい契のある言霊」と言う。神様との契約が整っている言霊ですので発するだけで効力がある。そのように守りの力を持つ「君が代」は昔から伊勢神宮や鹿島神宮という最上級の神社、神宮や出雲大社、春日大社といったそれに継ぐ格の大社と神宮の四方には結界を張る為に日本を守る意図で埋められていた。
世界のツボが集まっている日本を守る、すなわち世界(地球)を守っていたのです。それが終戦後、GHQによって掘り起こされ、結界が破られました。結界が破られたと言うことは、世界を守られない状態だという事を知っておかなければならない。